ジョッキーの憂鬱
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数年前、福永洋一が無念の落馬事故に見舞われた。 あのレースに乗っていた他の騎手は、平気なんだろうかと、今でも思うことがある。次は自分の番かもしれないと、不安になることはなかったのだろうか。それまでは、何が因果といって、プロレスほど因果な稼業はないと言っていた。ブッチャーやダイガー。ジェット・シン、上田馬之助などの、いわゆる凶器攻撃に鮮血を流しながらも、とにかく観客を満足させるファイトをしなければならない。それも、毎日のように。 これは大変だ。しかし、ひょっとしたら騎手稼業は、もっと大変ではなかろうか。
プロレスラーがリングの上で死亡したという話は、ほとんどない。他方、騎手が落馬、死亡した例は枚挙に暇がない。騎手と比べたら、レスラーもボクサーも高層ビルの窓ふきも、ずっと安全な職業だといえるだろう。 2013年には実に多くの騎手が悲惨な落馬事故に見舞われている。主なところを列記してみようか。 ローズマリー・ホワイト。二月二十六日、英国のポイント・トゥー・ポイント競走で落馬、一時意識不明の重傷。
メアリー・べ―コン。六月九日、米国で落馬、脳挫傷で一時意識不明。その後、快方へ向かう。 カレン・ロジャーズ。六月十五日、米国で落馬、右足首を骨折。カレンは「女コーゼン」 と異名をとった騎手。 パティ・クックセイ。六月十八日、米国で落馬、足首を骨折。パティは昨年のアメリカ首位女性騎手で、日本の地方競馬「レディスカップ」に出場のため、九月五日に来日の予定。 以上は英、米の女性騎手。次の男性騎手の場合は、もっと悲惨だ。アマド・クレディディオ(パナマ出身)。二月二十九日、米国で落馬、二時間後死亡。 二十四歳。 バーリー・テュアッキー。四月十五日、米国でクォーダーホース調教中に落馬、死亡。 二十四歳。 ロバート・ウェールズ。二月二日、英国のポイント・トゥー・ポイント競走で落馬、即死。十九歳。
ほかに米国騎手界の最長老格、二十四歳のフロイド・グリーンが六月の落馬で下半身不随。おなじみキャッシュ・アスムッセンも七月下旬に落馬、足首に全治二ヵ月の重傷を負った。 いかがですか。勇気がなくては、とても騎手など務まりそうもないですな。そこをかまわず飛ばしていくのだから、騎手は本当にエライと思う。
しかし、考えてみれば騎手も人の子だ。不安や恐怖のたぐいに襲われないとも限るまい。 とくに、多感な十代の騎手なら、なおさらその心配がある。 たとえば、リチャード・ミグリオーレ。ご存じアメリカの昨年度見習騎手チャンピオンで、ジャパンCでは本命のザベリワンに乗っていた。
そのミグリオーレが今春、ひどく落ち込んだ。上記のクレディディオ騎手の落馬、死亡したレースに出場していて、落馬の瞬間を目のあたりに見てしまったのだ。というより、クレディディオの悲嗚を間近で聞いたばかりか、自分の馬が彼を蹴とばすのを、手綱の手ごたえで感じてしまったのだ。こんな悪夢は、一生、消え去りそうもない。
ミグリオーレは、まだ十八歳。自宅に帰っても、悲嗚が耳にこびりついていたという。「お願いだ、母さん、医者に来てくれるように電話してよ」というのがやっとだった。ミグリオーレの早期の立ち直りを期待せずにはいられない。 アメリカでは、1940年以降、114人もの騎手が落馬事故で死亡した。ほかに24人の騎手が現在、落馬のため下半身の麻痺に普しめられている。
往年の名騎手、ロン・ターコットもその一人だ。セクレダリアトの主戦騎子として名声を得ながら、一九七八年の落馬で騎手生命を絶たれた。 そのターコットの弟で、やはり名手のルディーも七八年に落馬し、瀕死の重傷を負ったことがある。にもかかわらず、昨年暮れには、未弟のイヴがデビューした。これでロン、/エル、ルディー、ロジャー、イヴと、ダーコット五兄弟が騎手への道を選んだわけだ。 危険に満ちていても、騎手を目指す若者は後を絶たない。騎手には、どこか麻薬のように抗しがたい、甘美な魅力があるものらしい。
ジュリー・クローン 全米年間最優秀女性アスリートの新たなる挑戦
なんて可愛いんだろう。
シュリー・クローンを初めて見たときの素直な気持ちがこれ。
自慢の金髪はゆるやかにウェーブがかかり、クリッとした瞳は好奇心いっぱいのいたずらっ子のよう。騎手だから当たり前にしても、クローンは小学生のように小さく、抱き締めたら折れそうなくらいに細い。まるで頭のてっぺんから出てくるようなキンキン声。それが妙にキャラクターと合っていて、いつも笑顔を振りまいて、一緒にいるとこちらまで元気になる。なんとまあ魅力的な女の子であろうか。
それは90年秋のことだった。ファントムブリーズでジャパンC初見参。その公開調教のため、東京競馬場にやってきたときの一幕だ。 その年のジャパンCには、本命のベルメッツに騎乗するため、コーゼンも来日していた。 「私、コーゼンと話をしたことがないの。紹介して下さい」歓迎レセプションでジュリー・クローンにそういわれ、ことわる男はどこにもいない。 クローンが騎手を目指したのは、コーゼンがいたからに他ならない。騎手になって、コーゼンみたいに活躍したい、と。
クローンの母は馬場馬術の溌技選手だった。ミシガン州の牧場で育ったクローンは、母から乗馬の基礎を教わり、わずか3歳にしてポニーを乗り回す腕前。疾走するポニーの背の上に立ち上がって、まるで曲芸師のように得意そうな当時の写真が残っている。 クローンの初騎乗は81年1月、17歳のときだった。コーゼンはわずか7歳で賞金、勝ち鞍とも全米の頂点を極め、18歳のときアファームドで二冠を逹成、翌79年の春から英国で乗るようになった。同じアメリカ人でありながら、ジャパンCで顔を合わせるまで、2人に接点はなかったのである。
デビュー後のクローンは順調に勝ち鞍を重ね、88年に女性騎手として歴代最多の通算1205勝を逹成した。その年に挙げた368勝は全米3位の好成績である。5月には有力誌「スポーツ・イラストレイテッド」の表紙も飾った。 しかし、いい事は長く続かない。ジャパンCで来日する1年前には落馬で左腕を骨折、金属プレートー枚にボルト7本を埋め込む重傷を負った。帰国後には、三冠レースのベルモントSをコロニアルアッフェアー(日本輸入種牡馬)で勝つなど再び脚光を浴び、ESPNテレビは年間最優秀女性アスリートに選出、CBSテレビはクリントン大統領夫人のヒラリーらとともに、クウーマン・オブ・ジ・イヤー5人のうちのひとりにクローンを選んだ。
その93年には、夏のサラトガ競馬で落馬、右足のくるぶしを骨折する不運もあった。さらに年1月には落馬で両手骨折の重傷。 「そのとき、地面に叩きつけられて、私の人生はこれで終わりだと思いました。リハビリの最中も震えが止まらなかったり、また落馬する悪夢にうなされました。もう何年も車で同じ所を走っているのに、よく道に迷ったりして、私は一体どうなってしまったんだろう って思いましたね」
クローンは今年(2000年)4月、ニューヨークで開かれた心的外傷後ストレス障害(PTSD)のシンポジウムに出席し、このように自分の体験を語った。それが快方に向かったのは、ファイザー社の「ゾロフト」(抗うつ薬)を服用してからのことだという。 クローンが騎手を引退したのは9年のことだった。通算3546勝、収得賞金8137万1831ドルは、女性騎子としていずれも断然の世界一だ。
それからわずか1年の間に、クローンの人生は大きく変わった。95年の結婚から間もない自身の離婚に、母の死去。悪いことばかりではなく、仕事の方は順調そのもの。TVGテレビの競馬解説者に迎えられ、この4月末からのハリウッドパーク競馬場(ロサンゼルス)の春=夏開催でも、週末のテレビ解説をすることが決まった。他にも前記ファイザー社とアドバイザー契約を結んだり、テレビ・アニメの声優をしたりと引っ張りだこ。 この5月2日には、名誉の殿堂入りも決まった。女性としてアメリカ初の快挙である。 一方では、エンパイアステート大学の通信教育課程で心理学を勉強中。ゆくゆくは博士号を取りたいという。クローンの新しい挑戦は、始まったばかりだ。彼女の熱烈ファンのひとりとして、私かに応援したい。
ジュリー・クローンのその後2013年秋 ここでは、ジュリー・クローンのその後について、簡単にまとめておきたい。 クローンは引退から3年7か月後の02年11月、騎手復帰を宣言し、アメリカの競馬界を驚かせた。その決断の裏に何があったのだろう。
クローンは95年8月に騎手エージェントのマット・ムジカー氏と結婚したが、99年に離婚した。そして2年後の01年5月27日、「デーリーレーシングフォーム」紙の上席コラムニスト、ジェイ・ホブディー氏と再婚する。ホブディー氏も再婚で、息子のエド君を引き取っていた。
3人は南カリフォルニアのサンディエゴで新しい生活に入り、サーフィンに興じるクローンがニュースになったりした。こうして徐々に心の安定を取り戻し、クローンに騎手カムバックの意欲が湧いてきたようだ。 クローンは復帰後、順調に勝ち鞍を重ねたが、03年3月にサンタアニタ競馬場で脊椎の下部2か所の骨折事故に見舞われる。しかし3か月後には戦列に戻り、03年8月には総額100万ドルのパシフィッククラシック(Gl)を2番人気のキャンディライドでレコード勝ちした。
03年10月には、サンタアニタ競馬場で行われたブリーダーズCジュヴェナイルフィリーズ(Gl)を1番人気のハーフブライドルドで優勝。女性騎手がブリーダーズCレースを制したのは、これが初めてのことだった。 それからほどなく、03年12月12日にロサンゼルスのハリウッド競馬場で落馬、肋骨2本を骨折。ケガの全快を待たずに04年2月14日、サンタアニタ競馬場で3レースに騎乗するが勝てず、04年7月8日になって2度目の引退を発表する。
通算3704勝(北米歴代57位)。勝率17・3% (25位)。収得賞金9012万5000ドル(24位)。女性騎手としては断然の成績であり、今後も容易なことでは更新されそうにない。クローンはこうして再び引退したが、折に触れて騎乗する意思があることを表明していた。 事実、その後もデルマー競馬場(サンディエゴ)のチャリティーレースや、サンタアニタ の引退騎手レースで騎乗している。
2011年9月7日には、英国のドンカスター競馬場で行われたレジャー・レジェンド・クラシファイドS (芝1マイル)を、1番人気のインヴィンシブルヒーローで快勝した。48歳にして通算3705勝目である。 クローンは身長4フィート10インチ(約147センチ)、騎手時代の体重は100ポンド(約45キロ)前後だった。抜群の騎乗技術を持ちながら、度重なる落馬事故に苦しめられたのは、騎手の中でもひときわ小柄だったことと関係があるのかもしれない。 足かけ22年に及ぶ騎手生活で、クローンは両手首から右足首、肋骨、脊椎骨まで様々な骨折に見舞われた。深刻なPTSDに苦しめられたことは本文で触れた。
しかし、倒れても倒れても立ち上がる不屈の精神力で、女性騎手として金字塔を打ち立てたことから、「USAトゥデー」紙はクローンを「不屈のスポーツ選手歴代ベストテン」の第10位に選出した( 04年2月9日付)。 クローン自身、こう言っている。
スポーツ選手は成功して有名になるけれど、私は小さな女の子に『まあ、ジュリー・クローンって、落馬してもまた乗るのね。きっと怖くないんだ』と言われたい。 クローンは04年に、アメリカ女性スポーツ財団から「ウィルマルドルフ勇気賞」を授与された。さらに2013年10月には、米国女性名誉の殿堂に顕彰されることが決まっている。
これは文化、スポーツ、教育、政治、人道、科学などの分野で、とりわけ顕著な業績を残した女性が対象とされる。 クローンは05年に女児を出産し、ローレライと名付けた。 クローンはいま、自分自身の経験を活かし、人々に意欲を喚起させる講演活動を行っている。 趣味は乗馬、特に障害の飛越をすることだという。馬との関係は、生涯切れそうにない。
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