ディープインパクト無敗の三冠馬誕生までの関係者裏話
更新日:
ディープインパクトの特技当然、この程度の「楽」ではテンションは下がらない。ダービーが近付くにつれて、怖いほどのテンションになった。 坂路に入りしなは、パァーンと尻跳ねをした。そして、クビを上下に激しく振って、「走るぞ」という気迫を示す。これはディープの癖のようなもので、ファイティングポーズのようだった。
その後の現役中も、テンションが上がると走り初めに飛び跳ねようとした。跳ねたがるのは最初の10メートルほどなのだが、あのバネのような体で飛び上がるのだから乗っている方はたまらない。そのままひっくり返るのではないかと思うほど、跳ねるのだ。
ときには、調教コースではないが、その「逆立ち」をしたまま2、3歩、歩くことがあった。後ろ脚で立ち歩きする馬はたくさんいるが、こんな馬はこれまで見たことがない。
こんな常識破りなことができるのもディープの体が並以上に柔らかく脚腰が強いからこそなのだが、感心している余裕などない。そうなると、僕は落とされないようにするだけで、精一杯だった。 体の柔かさは、本当に並ではなかった。なにしろ、後ろ脚で耳の裏をポリポリッとかいていたのだ。シンザンもそうだったというから、これは三冠馬の共通点なのかもしれない。
無敗のダービー馬誕生!
2005年5月29日は、爽やかに晴れ渡った初夏の一日だった。ダービー当日の東京競馬場には等身人のディープ人形が登場するなど、いつものダービーとはやや違った熱気につつまれていたように思う。僕は市川さんと一緒にディープを曳いて、パドックを周回していた。その間、ディープはある一定の場所を通ると、跳ねて跳ねてしかたがなかった。報道カメラマンが一斉に切るシャッター音に驚いたのだ。いつものディープなら、シャッター音ぐらいで興奮したりはしない。
でも、あの日のカメラマンの数はすごかった。ディープが近付くと、カシャカシャカシャという音が何重にも重なりあって聞こえてくるのだ。理由はわかっていたので、「入れ込んでいる」という心配を僕はしていなかった。そして、金曜日の段階で「あとは、ユタカ騎手にお任せ」と考えることにした僕は、レースを楽しもうとスタンドヘ向かった。
しかし、ダービー当日とあって、スタンドの厩舎関係者席は混雑していた。みんなが、気を使って「敏行さん、ここに座りなよ」と声をかけてくれたが、真っ先にディープを迎えに行きたいと思っていた僕は遠慮させてもらった。
ゲートが開くと、ディープはこれまでの中ではましなスタートを切った。ゆっくり出たが、2400メートルもあるレースだ。慌てる必要はない。道中は後方4番手を進み、3コーナーでニシノドコマデモなどが動き出したと同時に、少しずつ外に出し見る間にポジションを上げ始めた。
直線に入ると、内々の経済コースを通ったインティライミが伸びている。実はこの馬、というか騎乗者である佐藤哲三騎手を、レース前に僕はもっとも恐れていたのだ。だから、粘るインティライミを見て、「やっぱりか」と思った。
でも、ディープの脚を見て「大丈夫だ」と感じた。とはいえ、僕には伸びが止まらないインティライミを交わしてからゴール板を過ぎた瞬間は、「差のない1着」に見えていたのだ。後で5馬身も差を付けていたことを知った。
「勝った」と思った瞬間、まずはほっとした。そして、嬉しさがこみ上げてきた。同時に涙が溢れる。ダービーまでの厳しかった日々が蘇り、まさに号泣となった。先生がダービートレーナーになった。ダービーに憧れていたのは先生だけじゃない。この競馬の世界に入って、ダービーを目指さない者はいないだろう。僕だってそうだ。周囲の人たちが次々と「おめでとう」と言ってくれる。僕は、先生に大きなプレゼントができたことが、何より嬉しかった。
ディープ、スパルタ教育に耐える
まずは厩舎のスタッフに協力してもらい、角馬場でディープともう1頭を併せで走らせることにした。角馬場を選んだのは、狭い場所の方がよかったからだ。いきなり、広いコースではじめれば、ディープが本気で行きたがったとき止められなくなるだろう。それでは、意味がない。でも、角馬場なら、走る範囲が決まっているため、ディープといえどもトップスピードが出せないのだ。それに、札幌競馬場は実際にレースをするコースを使用して調教をしている。実戦での仕掛けどころにあたる部分で、止める訓練をつづけたら、馬は本番で走らなくなるだろう。 また、この間の調教パートナー選びも重要だった。相方は素直で大人しい馬がいい。併走馬の方がかかって行きたがってはいけないからだ。
この訓練をはじめたばかりのころは、かなりひどいものだった。半馬身ほど相手の馬が前に出ただけで、すぐムキになって追い越そうとする。僕は「まだ、行っていいと言ってない!」と叱る。すると、ディープは「なんで、僕の前にあの子がいるの」と、さらにムキになってしまうのだ。前にいる馬を追い越さないと気が済まない。もう、1周まともに回るのも大変なほどだった。
いつもは素直でいい子なのに、ディープは走ることとなると別の馬のようになってしまう。誰よりも速く走りたくてしかたがないのだ。 しばらくは、ディープに他馬の後ろを走らせる。ディープが怒る。追い越そうとする。ダメと僕がディープを叩く。この繰り返しだった。そして、ちゃんと我慢できれば、目一杯誉めてやるのだ。
これは、気力と体力がいる調教だった。それにリスクも高い。無理に我慢させた結果、口が堅くなる可能性もあったからだ。それでも僕は、ディープとのこの勝負に賭けることにした。 さらに、僕はダービーのパドックで見せたような、お行儀の悪い行為も止めさせようと考えた。角馬場でバンバン尻跳ねをして怒るディープを見て、他の厩舎のスタッフは、「危ないなぁ」と言っていた。それほどの、暴れん坊ぶりだったのだ。もちろん、そんなことをすればディープは僕に怒られる。
終わって厩舎に帰ってくると、「あんなに叩いて」とよく池江先生に言われた。僕だってできればディープを叱りたくはない。それでも、このままで終わってほしくないからこそやっているのだ。そのことが分かっている先生は「怪我だけはさせるなよ」と言うだけで、止めろとは言わなかった 毎日、この調教をつづけていくうちに、ディープはだんだんと、やってはいけないことを覚えていった。あの賢さを発揮して、1ヶ月もするとマスターしてしまった。
菊花賞、三冠馬誕生の瞬間
菊花賞当日の10月23日の京都競馬場は、秋晴れの素晴らしい天気に恵まれた。
レース前、もしディープがこの菊花賞に勝てばナリタブライアン以来11年ぶりの三冠馬誕生、そして無敗での達成はシンボリルドルフに続く21年ぶり、史上2頭目と連日報道されていた。そのせいか、競馬場内はすごい熱気に包まれていた。スターターが台に上り、ファンファーレが鳴る。各馬のゲート入りは順調に行われた。 そのため、ディープはさほどゲート内で待たされることなく、スタートを切ることができた。 そう、ここでディープは競走生活中、最高のスタートを切ったのだ。しかし、それを見た瞬間「まずい!」と思った。いや、いいスタートに文句はないのだが、3000メートルもあるレースで好位置に付けてしまったら、ディープは保たないと思ったのだ。しかもいきなり引っ掛かっている。
しかし、さすがは武豊だ。ディープを後ろに下げて、他馬の間に入れることで落ち着かせたのだった。掛かったのは、後でユタカ騎手も言っていたが、賢い馬だけにゴール板がどこかを知っていて、1周目の直線でレース終盤を勘違いしたことが原因のようだった。
だから、レースはもう1周あるのだとわかった瞬間にハミが抜けた。しかし、2周目の3コーナー付近では、前を行くシャドウゲイト、アドマイヤジャパンから20馬身ほど離されていた。これは、かなり絶望的な差だ。
残り600メートルを切ったとき、ディープが爆発した。一歩、また一歩と、グイグイ前との差を縮めていく、そしてゴールまであと100メートルの地点でアドマイヤジャパンを捕らえると、2馬身差を付けてレースを制した。
三冠馬誕生のレースは、ものすごかった。スタンドがドォっとわいた。その瞬間、夏の札幌でディープに厳しい調教をしたこと、神戸新聞杯のことなどが一度に思い出された。これまでの成果が現れたことを知り、嬉しくて涙がドッとわき出た。肩を震わせ、ワンワン大泣きした。嬉しくても、人間は相当な量泣けるらしい。そして、僕はディープのもとへと急いだ。
実はディープのことが気がかりで根性で退院してきた市川さん、京都までディープに帯同してきていたのだが、レース後の興奮した馬を捕まえられるほどは回復していなかった。 だから、僕が競馬史上に残る偉業をなしとげた、ディープを迎えにいった。 検量室前に戻ってくると、池江先生が嬉しそうな顔をして待っていた。その笑顔を見て、また感極まってきた。 ディープ自身も含めた、みんなの努力が報われたうえに、競馬の歴史に残る偉業を達成したことに感無量の思いだった。
飛ばなかった古馬初対戦の有馬記念
16万のファンが集まった有馬記念。ディープはいつものスタートから後方に位置し、4コーナーからまくり気味に進出、そこから追い上げていくはずが‥。この日のディープは飛ばなかった。初めてディープに先着したのは、4歳馬のハーツクライだった。引き揚げてきたユタカ騎手は、ディープらしい競馬ができなかったといっていた。ハーツクライには見事に乗られた印象だ。 ディープに勝つならあれしかないという競馬だったと思う。ディープより後ろにいたら31秒くらいの脚を使うしかないのだから、前で競馬をして先に動くのは正解だろう。
雪によるスケジュール変更は敗因とあまり関係ないと思う。ディープは順応性が高いので、コースや調教メニューが変わっても問題なかった。それよりも一番の敗因は、僕たちの気持ちが伝わったことなんじゃないかと思っている。菊花賞後、僕たちのどこかに気が抜けたような感じがあった気がする。先生も市川さんも僕も「三冠馬を作るぞ」という気持ちで目一杯の仕事をしてきたので、余計にホンとしていた部分もあったのだ。その安堵感が伝わったのかもしれない。
この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!