馬の写真を撮影する競馬カメラマンになる方法
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競馬カメラマンになるには医学部を出て、国家試験に通らなければ、医者にはなれない。けれども競馬カメラマンは、写真学校を出る必要もなければ、資格もいらない。極端な話、名刺に「カメラマン」と刷り込めば、あなたも私も今日から自称カメラマン。では、プロとアマの境目は何か。
一般的に言えば、自分の撮った写真がお金になるかならないかが一つの目安だろう。更に、競馬カメラマンの場合、カメラマンとしてJRAから取材章を貸与されていることが、プロとしての1つの証しと言えるかもしれない。
つまり、競馬場の中で言えば、柵の内側にいるのがプロで、外にいるのがアマということになる。競馬ファンにして、カメラ好きの中には、プロ顔負けの望遠レンズを手にしている人も多い。これだけ機材にお金をかけてるんだから、密かにプロになりたいと夢見ている人もいるはずだ。ウイナーズサークルヘ自由に出入りするプロカメラマンを、羨望とも妬みともつかない目で眺めている人も多いと推測する。
では柵の内側に入れる人と、外にいるだけで終わってしまう人の差は何か。その人の持つセンス、才能、勘みたいなのも、もちろん大切だ。しかしもっと重要なのは、自分が本当に競馬カメラマンとして仕事をしたいのかどうかを、自己確認することだろう。そして自分の気持ちが確認できたら、競馬カメラマンになるために、何をすべきかを考え、それを実行に移すことが肝心だ。
とにかく行動を起こせ
何も事を起こさずに、ただ「最近は競馬人気も下降気味で、競馬雑誌も減ってきたから、僕にはチャンスがない」的な発想をしていてはダメなのだ。しかし、もし本当に、自分が既存のプロカメラマンよりうまい、あるいは中にさえ入れてもらえればすごい写真が撮れるという自信があるなら、とりあえず売り込むなり行動を起こしてみてはどうだろうか。
「今の若い子は根性ないよ。競馬場で写真撮ってるファンの人と話すけど、「僕なんか駄目ですよ」って簡単に弱音吐いちゃうんだから」知り合いのカメラマンがボソッと言った。実は彼、24才でカメラを始め、34才の今、プロのカメラマンとして立派に独り立ちしている。23才まで、楽器店でバイトをしながらバンド活動をしてたというから、写真学校を出ているわけではない。だが、撮りためていた馬の写真を、ある出版社に持ちこんで見てもらったことをきっかけに、競馬カメラマンとして仕事をするようになったのだ。
ふと思ったのだが、「カメラマンになりたくても行動を起こせない人」というのは、もしかすると誰かに写真を見てもらい、否定的なことを言われるのが怖いのではないだろうか。私にも多分にその傾向があるから、よくわかる。けれども、写真を発表すれば、必ず人の目には触れる。人の目に触れれば、必ず批評や批判の対象になるのだ。何を言われても、それを肥やしにできたり、踏み台にできるくらいの精神的な図太さが必要不可欠のような気がする。
そして、もう一つ大切なのが、人間性だ。今日はいい仕事ができたと思った時は、人の心をつかむことのできるカメラマンが一緒だということが多い。カメラマンというのは、個人プレーに見えるだろうけど、写真を使ってくれる編集部なり、代理店なりがあって仕事が成り立つものなのだ。編集者やライターと一緒に、取材現場に行くこともある。
そんな時は、お互い助け合いながら行うチームプレーのようなものだ。それにレース写真ばかりが競馬カメラマンの仕事ではない。厩舎にいる馬や、牧場にいる馬が被写体ということも多い。そこには必ず人が介在する。いきなり馬にカメラを向けるわけにはいかない。まずは、挨拶をして何かしら会話をする必要が生じてくる。そこでの一言、二言が、その後気持ちよく撮影させてもらえるかどうかの鍵を握っている。
これは偏見かもしれないけど、「わっ、この人やるなあ」と思わせる人は、挨拶する時の笑顔がとてもイイ。誰でも、人の良さそうなニッコリ笑顔を向けられれば、つい心を許してしまうものである。厩舎や牧場の人の心を開くことができれば、その場の雰囲気も柔らかくなって、いい写真を撮ることもできるはずだ。何たって、馬は人がピリピリすれば、自分もピリピリしちゃう、デリケートな動物なのだから。
自分しか撮れないものを
最後に一つ。例えば「馬の瞳を撮らせばあの人」のように、自分にしか撮れないものを持っていることが、強味になる可能性は大きい。
前出のカメラマンは、オートフォーカスを一切使っていない。使用カメラはコンタックス。オートフォーカス全盛の中、ずっとマニュアルで撮り続けているという。彼が仕事をしている雑誌自体が、イメージカットを多く使うという特色がある。だから一般のカメラマンが撮るような直線の叩き合いではない、例えば検量室前に引き上げて来た湯気の上がっている馬を、ギリギリまで近づいて撮るなど、彼なりの撮り方を実践し研究しているらしい。彼日く「既存の競馬カメラマンの写真はお手本にしたことはない」のだそうだ。
やる気とある程度の実力や技術があれば、まだ入る余地のある競馬カメラマンの世界だけれど、雑誌などの媒体そのものが減っていることを考えると、競馬1本だけで食べていける人は、ごく一部だろう。サラリーマンをやりながら、週末はプロカメラマンという人もいるし、他のスポーツ、または一般誌やコマーシャルのカメラマンと併行して自分が一番撮りたい競馬の仕事をやり続けている人も数多い。厳しい現実を踏まえたうえで、それでも競馬カメラマンになりたいという情熱のある人は、挑戦してみる価値が十分にある仕事だろう。
ハガキでの売りこみ
ハードなスタジオ勤務をこなしながら、競馬場に通っては写真を撮影していた。山本氏はある行動に出る。「『優駿』で写真を撮りたいのですが……とハガキを、JRAに出したんです」プレゼントの応募じゃないんだから、ハガキで売り込みをするとは、怖いもの知らずの人だ。「そうですよねえ、今、考えればちょっと普通じゃないですね(笑)。普通は電話で売り込む人が多いそうなんですけどね。何書いたか忘れましたけど、まだ22、3才でしたし、達者な文面でなかったのは確かです(笑)」しかし、「ハガキ」というのは、ある意味かなりのインパクトがあったと思われる。
その証拠に、すぐに反応があった。「『優駿』を発行している中央競馬PRセンターに、そのハガキが回ったらしくて、PRセンターから電話がかかってきたんですよ」写真を持ってPRセンターを訪ねたのが、1991年の12月であった。そこで、いきなり有馬記念で撮影をするチャンスを与えられる。
「あの時はまだ枯れ芝でしたね。報道用の腕章(当時は取材章ではなかった)をもらって、山本君、どこで撮ってもいいよって言われた。先輩カメラマンの隣に陣取ってたと思います。ダイユウサクが勝った時で、確か真っ正面から撮影しましたね。さすがに『優駿』には使われなかったけれど、結構きれいな出来でしたよ」
1992年の暮れ、彼は約5年間勤めたスタジオを退職する。それを機に『優駿』からGIレースを中心に撮影してほしいという依頼を受ける。でもそれだけで、食べて行けるわけではない。だから、1年目は様々な仕事を受けることになった。「実家にいたということと、スタジオマン時代の貯金が少しありましたからね。でもあっという間になくなりましたよ。フリーになってからの最初の仕事は、お墓の撮影でした(笑)」
仕事は、知り合いや一緒に仕事をしたことがある人などから紹介されることが多かった。「人とのつながりは大切ですよ」としみじみ語る。実力があるということはもちろんだが、それと同じくらいに人間関係が、モノを言う世界なのだ。「好きなように、結構わがままにやってきましたけど、本当に人には恵まれてきました。ただ今思えば、いつもいい心の状態でいたいと思っていたので、そういう人と多く知り合えたのかもしれませんね」お墓の写真などを撮りながら、本格的に競馬カメラマンとしても仕事を開始したわけだが、初めからベストショットをバシバシ撮影できたわけではない。
「一般ファンと我々を隔てている柵の内と外の差は、たった3メートルくらいなんですよ。でも、内側に入ってみて、ものすごく違いを感じましたね。だって柵の内側に入った途端、写真が撮れなくなりましたもん。当時はオートフォーカスなんて使ってなかったんで、みんな手でピントを合わせてたんですよね。
柵の外にいる時は、横から見る感じなので、馬が流れて来るように見えますよね。でも柵の中では、下から(カメラを)構えるから、馬がぶっと上がって来るような感じなんです。その一瞬にピントを合わせながら、(どの馬を撮るか)決めなきやならないんで技術的に相当難しいことをやっていたんですよ。
だから初めの1年間は、全然ピントが合わなかったんです。「ピントの合わない山ちゃん」って(笑)、どこかに書かれたこともあるみたいだし、「またピントが合ってない」って優駿でもよく言われてたらしいですよ(笑)」
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