ケンタッキーから広がる世界の名血
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カルメット牧場は1924年に開設された。 敷地は762エーカー(約93万坪)。アメリカでは当時、サラブレッドの競馬より繋駕レースの人気が高く、繋駕馬のスタンダードブレッドの生産牧場としてスタートした。 1932年になって、サラブレッドの牧場へと改編された。するとほどなく、1940年代にワーラウェイ、サイテーションと2頭の3冠馬を送り出し、カルメットは早々と全盛期を迎える。看板種牡馬のブルリーは、40年代から50年代にかけてアメリカ首位種牡馬に5回輝いた。 その後、60年代半ばからいったん勢いをなくすが、70年代後半にアリダーが現れて盛り返す。
しかし、創業者一族のライト家令嬢と結婚していたJ ・ランディ(当時41歳)が1982年6月に経営権を握ると、やがて重大な結果がもたらされることになる。 1988年当時は牧場は平穏そのものに見えた。アリダーは壮年であり、前途洋々。87年には、経営悪化のスペンドスリフト牧場から、アリダーの宿命のライバルだったアファームドを引き抜き、カルメットは強力種牡馬2頭を抱えていた。悲劇はいつも突然やってくる。1990年11月13日、アリダーは右後肢の管骨を骨折、手術で暴れてさらに大腿骨を骨折し、やむなく2日後に安楽死とされた。
このニュースが流れると、すぐに事故ではなく保険金目当ての事件ではないかと疑念がもたれた。カルメットは破産寸前だったからである。 アリダーの保険金3650万ドル(当時約47億5000万円)はほどなく支払われたが、カルメットの負債は1億2000万ドル超に及んでおり、この程度では焼け石に水。カルメットは91年に破産し、92年に競売に付されることになった。
カルメットは「栄枯盛衰の物語を終えた」と本文に書いたが、これは同時に新しい時代の始まりでもあった。カナダの実業家で有力馬主でもあるH・ド・クウィアトコウスキー氏(ポーランド出身)が救世主のごとく競売に現れ、1700万ドルで落札した。それにとどまらず、前々からその美しさに魅了されていたことから、カルメット牧場を存続させることにしたのである。
そのクウィアトコウスキー氏が亡くなったあと、新生カルメット牧場は2012年になって、「カルメット投資グループ」が3590万ドルで購買した。カルメットは現在、投資グループのひとりとされるB ・ケリー氏によって運営されている。 カルメットの歴代所有馬には、3冠レースの最初の2つであるケンタッキーダービーとプリークネスSの勝ち馬が8頭ずついて、これはいずれも馬主としてのレコード。このうちプリークネスSの8勝目となったのが、今年のオックスボウである。カルメットが3冠レースの勝ち馬を送り出したのは、1968年のプリークネスSをフォワードパスで勝って以来、実に45年ぶりのことであった。
では、カルメットはいかにして破産に至ったのか。 1982年当時、牧場の債務はゼロであった。ランディはカルメットの経営権を握るや、周囲3・7キロに及ぶ牧柵のベンキ塗り直しをさせたり、馬のクリニック設置や1000メートルの芝の調教コースと馬のプール導入など、矢継ぎ早に改革を断行した。 それはいいとしても、セクレトの半分の権利に2500万ドル内外もの法外な力ネをつぎ込んだり、月額3万ドルで自家用ジェット機を確保し、友人を乗せてメイン州までロブスターを食べに行ったり。
これでは債務超過となるのに何年も必要としない。ランディはヒューストンのファーストシティ。ナショナルバンクから6500万ドルを詐取したとして、2000年に懲役4年6か月の判決を受け、翌年2月から3年ほど服役して保釈された。 アリダー死亡の件で訴追される者はいなかったが、それは証拠不十分だったからにすぎない。これが仕組まれた事件であることを疑う人はいないだろう。ランディはアリダーが馬房の壁(コルク製)を蹴って怪我をしたと説明したが、それにしては怪我の程度がひどすぎる。マサチューセッツエ科大学のP ・プラット教授がヒューストンの連邦裁判所で証言したところによると、あらすじは以下のようであったらしい。
ロープの片端を馬房の中のアリダーの肢に縛りつけ、もう片端をトラックに繋ぎ、トラックを急発進させる。考えただけでゾッとする光景だ。 アリダーは馬体重1200ポンド(約544キロ)の巨漢馬で、現役時代は「ダイナマイトホース」といわれた。「危険」「爆発」「破壊」というダイナマイトのイメージがぴったりだったからだ。
対するアファームドは、4歳秋の計量で499キロ。細身に見えても体重に不足はなく、馬を描いたら当代一のリーヴズ画伯が「見た目に欠点のない点ではバックパサーと双璧だ」といっている。現役当時は「鋼の体に鉄の意志を持つ馬」といわれた。カルメット倒産後はジョナベル牧場に移り、蹄葉炎のため2001年に26歳で死亡した。 同じケンタッキーのクレイボーン牧場では、今を盛りのミスタープロスペクターと、セクレタリタト、ニジンスキーの米、英3冠馬を見てきた。ミスタープロスペクターは小柄で目立つタイプではなかったが、あとの2頭はいずれも競走馬時代から500キロを軽く超す巨漢を誇っていた。
セクレタリアトは秋の陽射しを気持ちよさそうに浴び、芝地にうずくまって時の流れに身をまかせていた。ニジンスキーは立ったまま元気よく首をもたげ、あたりを碑呪していた。 その首さしの太くたくましいことといったら。2頭には、一世を風靡した名馬だけが持つ風格があった。 クレイボーン牧場では、吉田善哉さんが4か月前のキーンランド・ジュライセールで購買したばかりの1歳馬2頭が元気に跳ね回っていた。1頭は後のジェイドロバリー(父ミスタープロスペクター)、もう1頭はニジンスキーの珍しい芦毛の産駒で、後のミュージックタイムである。
ジェイドロバリーはフランスで調教され、仏Glのグランクリテリウムを勝った。その後、日本で種牡馬入りして成功した。ミュージックタイムは日本に送られ、G2のニュージーランドトロフィー4歳S (現。ニュージーランドトロフィー)を勝った。その後、種牡馬として東京ダービー馬のサンライズパワーを出した。 アメリカの1歳せり市で2頭だけを買って、その2頭がそろって重賞を勝ち、種牡馬としても名を残す確率はどのくらいだろうか。かなりの低さであろう。吉田善哉さん、さすがです。
オグリキャップについても感想を付記しておきたい。 正当派ネイティヴダンサー系らしく、芦毛を引き継ぎ、まず第一関門クリアーだ。 ネイティヴダンサー系は異端の血統である。近親に活躍馬などいなくても、天啓に打たれたかのごとく、突如として天才馬が現れる。それを体現したのがオグリキャップであった。 オグリキャップには、直系祖父のネイティヴダンサーに先祖返りしたかのような爆発的なスピードがあった。それでいて短距離馬ではなかったところも偉大な祖父と似ている。
引退レースの有馬記念は新装成った中山競馬場に17万7000人が詰めかけ、大げさではなく、スタンドが揺れていた。その異常なまでの盛り上がりのなか、オグリキャップは魂のレースを見せてくれたのである。 種牡馬としての不振については何も言うまい。オグリキャップはただ、レースをするためにだけ生まれてきたのだ。いつも武者震いをして、それからおもむろにゲートに入り、全身全霊で勝ちにいった。
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